【京都の和菓子:京菓子とは?】

四季を彩る華やか京菓子とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

京菓子とは、京都で修行した職人が、京都で作る和菓子のことを京菓子といいます。これは「都」である京の菓子を地方のものと区別するために、このように呼ばれるようになりました。

京菓子は、有職故実による儀式や典礼の影響を受け、伝統の祭礼や儀式のための供餞菓子や芸術、茶の湯によって洗練された茶菓子が作られ、発展してきました。

宮中や公家、社寺や茶家(ちゃけ)などに献上される「献上菓子」を「上菓子(じょうがし)」と言い、庶民が口にする菓子とは区別され作られていました。

これらの京菓子は、年中行事や四季の季節感を大切にする京都人の美意識によって育まれてきたのです。


【京菓子の起源 】

京菓子の起源は、平安時代(794年 - 1185年)にさかのぼります。当時の日本の首都であった平安京(現在の京都)は、貴族たちが集う文化の中心地でした。

平安時代は、貴族文化が栄え、宮廷の儀式や行事で和菓子が用いられるようになりました。また、中国からの影響もあり、菓子作りがさらに洗練されていった時代でもあります。

鎌倉時代(1185年 - 1333年)に入ると、武家政権の台頭とともに、茶道が日本の文化として根付き始めました。室町時代(1336年 - 1573年)には、茶の湯がさらに発展し、茶室での茶会が頻繁に行われるようになりました。茶の湯の精神性と繊細さが、京菓子の発展とともに大きく影響し、茶席で用いられる和菓子としての地位を確立しました。

また、室町時代には、足利義満によって金閣寺が建立され、さらに多くの寺院や文化施設が京都に建てられました。これにより、寺社の行事や茶会などで使われる和菓子の需要が高まり、京都の菓子職人たちが独自の技法やデザインを追求するようになりました。

戦国時代(1467年 - 1615年)を経て、江戸時代(1603年 - 1868年)になると、平和で安定した時代を迎え、商業や芸術が発展しました。この時代には、菓子職人たちが京都の伝統を継承し、さらに独創的で美しい京菓子が生み出されました。

現代に至るまで、京菓子はその美しさや繊細さから、日本の伝統的な和菓子として多くの人々に愛され続けています。茶道の文化とともに、京菓子は日本の歴史や風土を感じさせる独特の魅力を持っており、現在でもその伝統が守られています。


【京菓子と和菓子の違いとは?】

京菓子というのは、京都で修行した職人が、京都で作る和菓子のことです。

つまり、京菓子は和菓子の一種です。和菓子のうち、京都の職人が京都の地で作った和菓子のみが京菓子と呼ばれます。

このように単なる和菓子ではなく、京都で作られた和菓子のみを「京菓子」と呼ぶようになったのは、当時「都」であった京都をほかの地域と区別するのが目的でした。

その伝統が今も残り、京都の和菓子は特別な名、京菓子と呼ばれます。 なお、京菓子も含まれるより広範囲なお菓子を意味する和菓子という言葉は、日本の伝統菓子の総称として使われます。

ただ、その中でも明治時代以降、海外から多く入ってきた洋菓子に対する言葉とした意味合いが強いです。そのため、江戸時代までに日本に伝わり独自の要素を盛り込み変化したお菓子のみを表す言葉として使われるのが一般的です。

一方で、その定義は明確に定められているものではありません。江戸時代以降に日本独自で生み出されたお菓子を和菓子と呼ぶこともあります。

また、共通する特徴として、小豆や餅粉、米粉などを原料としたふんわりと優しい甘さがあげられるものの、時代とともにその味・見た目の多彩さは進化し続けています。

日本が誇る食文化のひとつとして広く人々に愛され続けている存在こそが、和菓子です。

【京菓子の良さとは? 】

京菓子は、大きくは「生菓子・半生菓子・干菓子」に分類できます。

そして、そのそれぞれに違った魅力があるものの、そのいずれも、京都四季の季節感、雪月風花の刹那の時を味わう、京都人の美意識とともに育まれてきたのは共通です。

そのため、京菓子を食べるものはみな、その存在を通して四季の移り変わりを楽しめます。日本ならではの四季の移ろいを、食を通して感じさせてくれるところこそが、京菓子の最大の魅力です。また、使う素材や味からだけでなく、見た目の美しさや香り、さらには菓子に触れるその感覚からも、季節の変化を感じさせてくれます。

特に、かつて都であった京都ならではの古典文学や年中行事などにちなんだ銘を菓子につけることで、味覚・触覚・嗅覚・視覚に加えて、その名から情景を思い浮かべられる聴覚を含めた五感で楽しめる京菓子も数多くあります。

この五感で楽しめるという特徴は、都であった京都のお菓子だからこその魅力と言えます。 また、京菓子は、伝統を重んじるものの、今なお新しい感動を人々に届けることを追い求め続けています。

これまで美を追い求めることで培ってきた伝統文化や技術を大切にしつつ、変わることを恐れない京菓子の世界が届けてくれる感動は、ますます広がりを見せています。

京菓子の歴史

和菓子のルーツは、「木の実」や「果物」

食が充分ではなかった古代人は、空腹を感じると野生の「古能美」(木の実)や「久多毛能」(果物)を採って食べていました

この間食が「果子」と呼ばれるものになったと考えられています。食べ物を加工する技術のなかった太古には、果物の甘みを特別な恵みと感じ、主食と区別していたと言われています。

唐菓子(からくだもの)

奈良・平安時代の遣唐使がさかんであった時代に、唐風文化の一つとして唐菓子が入ってきました。

この唐菓子は、「梅枝(ばいし)」「桃子(とうし)」「餲餬(かっこ)」「桂心(けいしん)」「黏臍(てんせい)」「饆饠(ひちら)」「鎚子(ついし)」「団喜(だんき)」などと呼ばれ、米、麦、大豆、小豆などをこねたり、油で揚げたりしたもので特徴のある形をしており、祭祀用として尊ばれました。この唐菓子が、和菓子に大きな影響を与えたと考えられています。

羊羹・饅頭

鎌倉・室町時代に入り、中国から茶とともに点心が伝えられました。饅頭、羊羹、猪羹、納豆、豆腐などがもたらされたのですが、当時の羊羹は文字通り羊の肉を煮て羹(あつもの)にした汁物でした。

当時、獣肉食の習慣のなかった日本では、羊の肉に似せて麦や小豆の粉などで代用していました。現在の羊羹の形になったのは、江戸時代に寒天が発明されたことにより完成しました。

「南蛮菓子」

ポルトガル人によって、カステラ、ボーロ、カルメラ、金平糖(こんぺいとう)などの「南蛮菓子」が伝えられました。

卵や油、砂糖をたっぷりと使ったもので、当時日本では砂糖がとても貴重だったっ為、その美味しさは、人々を魅了しました。以後、南蛮菓子も京菓子の一部になり発展していきました。

「茶道と和菓子」

千利休の茶会の菓子として「麩の焼き」が、多く用いられていたそうですが、そのほかに「やきぐり」「せんべい」「焼き昆布」などが記録に残っています。

さらには、江戸時代になって安定した時代を迎え、上流階級のみが食していた菓子が庶民の間にも普及していきました。また茶の湯の文化も広まり、蒸し菓子や生菓子などの「主菓子」や、落雁(らくがん)やせんべいなどの「干菓子」が生み出されました。

季節感や花鳥風月などを表現し、高い芸術性が込められた菓子文化へと発展していきました。

「四季の京菓子」

京菓子は、約三百年ほどの歴史があり、長い年月を経て今に伝えられてきました。

和菓子職人の先人たちが、厳しい修行を乗り越え、切磋琢磨し作り上げてきた華やかな京菓子。

その菓子作りを体験することで、京都の魅力を味わって頂けることと思います。


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